| 背景 |
むかしむかし、出羽の国を旅した3人の賢者がいた。
そのうちの一人は、今から820年前の2月(旧暦)、数人の家来とともに山伏姿に身をやつし、鼠ヶ関から鶴岡に入り、清川から最上川を船で遡上して本合海で下船、陸路を新庄、瀬見温泉・薬研湯、鳴子温泉を通り平泉への逃避行だった。
2人目は約320年前の初夏、その平泉から鳴子温泉に入り山刀伐峠を越え尾花沢、大石田、山寺を詣で、新庄を通り本合海から船で最上川を下る。清川から出羽三山を詣で鶴岡、酒田へ俳句を詠みながらの旅であった。
そして3人目は、今から130年前の初夏、会津、新潟、中条から山形に入り、松川(最上川)を眺めながら山形、天童、新庄、金山を通り秋田の院内へと向かった。その人とは、青い目をしたイギリス人女性探検家だった。
この3人の賢者に共通するキーワードは奇しくも最上川だったのである。
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1187年2月(文治3年)、兄頼朝の追っ手から逃れた源義経は、石川県小松市にある安宅の関を抜け、富山、直江津、佐渡、寺泊、瀬波を経て、新潟と山形の県境にある鼠ヶ関に入る。山伏姿でこの関所を抜け、鶴岡から清川に出て、ここから船で最上川を遡り、鮭川と最上川が合流する集落の金打坊を通り本合海で下船、ここから陸路で新庄を通り亀割山に向かう。この亀割山で静御前は亀若丸を出産するのである。麓には瀬見温泉があり、弁慶が見つけたと言われる薬研湯で一行は旅の疲れを癒し、それから宮城県に入り鳴子、岩手県栗駒を通って奥州平泉に入る。
・・・最上川 瀬々の岩波早ければ よらでぞ通る白糸の滝・・・
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1689年5月(元禄2年)、義経が辿った出羽路から500年後、俳人松尾芭蕉は、江戸深川から千住、那須を横切って白川の関を超え、奥の細道に入る。そして松島を発って、義経最後の地、平泉に弟子の曽良と到着する。平泉から南下して宮城県の岩出山から西に向かい、鳴子温泉を左手に見ながら尿前の関(しとまえのせき)、中山峠越えののち、出羽の国に入り尾花沢に着いた。
それから立石寺、大石田を訪ねた後、舟形から新庄に入る。新庄で2日ほど滞在ののち、本合海から船に乗り、白糸の滝、仙人堂を見ながら清川河岸で船を降り、羽黒山の宿望のある門前町手向(とうげ)に着いた。
出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)を巡拝したあと鶴岡へ、そして酒田に着いた。ほぼ1ヶ月に渡る出羽路の旅だった。その後、秋田県の象潟に立ち寄り、日本海沿岸を下り直江津、最終地大垣に入ったときは秋を迎えていた。
・・・五月雨を あつめて早し 最上川・・・
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1878年7月(明治11年)・・・たいそう暑かったが快い夏の日であった。会津の雪の連峰も、日光に輝いていると冷たくは見えなかった。米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い赤湯があり、まったくエデンの園である。「鍬で耕したというより鉛筆で描いたように美しい。米、綿、とうもろこし、タバコ、麻、藍、大豆、茄子、水瓜、きゅうり、柿、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべてそれらを耕作している人々の所有しているところのものである。彼らは、葡萄、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である。それでもやはり大黒が主神となっており、物質的利益が彼らの唯一の願いの対象になっている。美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅力的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く、【注】松川に灌漑されている。どこを見わたしても豊かで美しい農村である。・・・会津から米沢に入ったイギリスの女性探検家イザベラ・バードは、山形県米沢に入り、以上のようなことを「日本奥地紀行」にしたためている。そして赤湯、上山、尾花沢、新庄、金山を通過して秋田県の院内に入る。
【注】最上川を地元(米沢付近)の人は、今でも親しみを込めて松川と呼んでいる。
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源義経と松尾芭蕉(武士と俳人)は、西と東から出羽路を辿り、青い目をした女性探検家イザベラ・バードは、南から北へと出羽路を旅した。3賢者は820年という時空を超え、日本三大急流の一つに数えられる最上川と街道で交錯・遭遇する。
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